お寺の紹介 Profile of Yusenji

涌泉寺紹介

涌泉寺 当寺は大正7年(1918)5月、松ヶ崎集落にあった同じ日蓮宗の妙泉寺と本涌寺が合体して、両者の寺名をとって成立した日蓮宗の寺院である。ただし、当寺の現在地はかっての本涌寺の寺地にあたり、妙泉寺の敷地は今松ヶ崎小学校の校地となっている。
ところで、松ヶ崎集落は洛西の鶏冠井集落とともに、鎌倉時代の末に日像によって東国から日蓮宗がはじめて京都に伝播したとき、いちはやく教化された集落であって、それ以後当地の住民は一村あげて皆法華という信仰現象を形成していた。
今日、この松ヶ崎集落の住民により毎年8月15、16日の精霊会の送り火に「妙法」の二文字が松ヶ崎の西山と東山に燃やされ、また8月15、16日の両日に当寺の境内で題目踊りが行われているが、この起源は、文献によっても近世はじめまでさかのぼることができ、いずれも当集落の熱心な法華信仰の伝統を示すものである。
妙泉寺は京都地方の日蓮宗寺院としては最も古い寺院の一つで、かつて、松ヶ崎集落にあった歓喜寺の住持実眼が日像に帰依して日蓮宗に改宗し、寺名を妙泉寺と改称したにはじまり、以後松ヶ崎集落の住民の信仰を集めた寺である。一方、本涌寺は日蓮宗洛陽檀林の一つである松ヶ崎檀林の寺号である。檀林とは、近世初頭に日蓮宗教団が宗内僧侶の養成のために設けた学問所のことで、松ヶ崎檀林は数あえる落葉諸檀林のなかでも、実に最古のものである。すなわち松ヶ崎檀林本涌寺は、天正2年(1574)、教蔵院日生が当地に講筵を開いたことにはじまる。日生ははじめ立本寺日経、次いで妙覚寺日典に師事し、叡山にも遊学した当時の日蓮教団きっての碩僧で、天正5年(1577)には関東下総の飯塚檀林にくだって要行院日統をたすけて天台三大部を講じ、次いで日統の没後は飯塚檀林に転じて学徒を養成し、天正8年(1580)再びこの松ヶ崎に帰って学室に学徒を集めた。本涌寺なる寺号も、この頃出来たものであろう。その後、日生は京都立本寺あるいは岡山蓮昌寺にも晋住したが、晩年三たび松ヶ崎檀林に帰って、文禄4年(1595)この地で没した。
以来、松ヶ崎檀林の化住(現在の学長にあたる)は、円通院日純、教蔵院日陽など宗内碩僧に次第され、明治初年にいたるまで、全国から能化(現在の教官)や所化(学生)がこの地に集まり、近世日蓮宗教学のメッカとして栄えた。涌泉寺は、この松ヶ崎檀林の旧跡である。現在、当寺に伝蔵される古文書・記録・聖教類は、妙泉寺系統のものは少なく、おもに松ヶ崎檀林関係のものである。門人帳・檀林規則・宗門聖教類があるが、いずれも近世のものである。
檀林としての規模が、講堂・学室・食堂などの諸建造物が建築されて整備したのは、江戸前期の十一代化主興正院日意の代のころで、記録によれば、当時、東福門院女院御所の建造の残木を寄せられて、これが整備されたという。
注目すべきは、当寺の現在の本堂で、これは往時の檀林の講堂がそのまま転用されたもので、承応3年(1654)の建造にかかり、様式は禅宗本堂と同じく六つの間取りであって、特異な様式を示し、日蓮宗檀林の講堂の遺構としては、全国的に見ても最古にして、唯一のものと思われる。当寺には、このほか檀林の旧姿をしのぶものとして、今は衰滅した「白頭軒」・「妙玄堂」などの扁額を伝えている。また、日生上人の座像が伝蔵され、境内には日生以下歴代化主・能化・所化の墓石がある。

(財団法人京都府文化財保護基金 発行の 「京都の社寺文化」より引用)
涌泉寺(山号):
松﨑山
所在地:
〒606-0945 京都府京都市左京区松ヶ崎掘町53
電話:
075-722-1810
住職名:
八竹 良明
旧本寺名:
京都立本寺(旧寺格) 緋
本尊観請様式:
一塔両尊四士 合掌印(祖像)説法像
寺宝:
宗祖筆断片。日像、日生、日重・日乾・日遠三師本尊
(「日蓮宗寺院大鑑」より引用)

所有文化財

境内案内

境内案内
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沿革:
大正7年5月14日に、妙泉寺を本涌寺に合併し涌泉寺と改称した。
旧妙泉寺は始め歓喜寺と号し、天台宗叡山三千坊の一坊で延暦年間に、黄門侍郎牒利(こうもんじろうのりとし)が創立。生師法縁。永仁2(1294)年5月、時の住僧実眼が日像に帰依しその門に入る。徳治元(1306)年7月に全村民が悉く旧宗を棄て法華の信者となり、寺号も妙泉寺と改称した。旧本涌寺は天正2(1574)年に教蔵院日生が創立。生師法縁。日生は少壮の頃、僧都谷に庵を結び学を修め僧を教育す。暫く盛んになるに及び講堂を建て、天正2年2月に檀林(松ヶ崎)を開く。宗門学校の最初で明治9年まで続いた。
以上旧2ヶ寺の沿革により当山は竜華樹院日像を開山と仰ぎ、日生を開基と尊称する。また当山に日本最古の盆踊といわれる松ヶ崎題目踊及び送火妙法の行事あり。境内に尼宗学林あり、尼僧の教育をなし、また保育園を経営。JR京都駅下車、市バス松ヶ崎行で終点下車徒歩10分。
(「日蓮宗寺院大鑑」より引用)
大正七年妙泉寺移転前の小学校 村役場の推定配置図
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大正七年妙泉寺移転前の小学校 村役場の推定配置図
明治十年~大正七年頃の様子(寺と小学校が区分された頃)
松ヶ崎涌泉山縁起
松ヶ崎涌泉山縁起 拡大する
  • 日生上人座像
  • 【日生上人座像】

    生歿年:
    1553 - 1595
    所有者:
    涌泉寺
    所在地:
    京都市左京区松ヶ崎堀町
    品質眼:
    木造(寄木造)、彩色 玉眼
    像高:
    25.8
    制作年:
    桃山時代

    日生は京都立本寺の日経の弟子で、下総国飯高に講場を設け、天台三大部を講じたが、これはのちに飯高談林と呼ばれ、日蓮宗で最初の談林(学問所)であった。日生は、飯高を弟子日尊に譲ったあと、天正二年(1574)京都に帰り、洛北松が崎にも談林を開いた。この二つの談林は根本談林といわれ、のちこれにならって多くの談林が設けられた。
    涌泉寺は、この松が崎談林の後身で当時の講堂を残す本涌寺と、古く歓喜寺といい叡山三千坊の一つであり、鎌倉末期に日像によって日蓮宗となって改称した妙泉寺とが大正七年(1918)に合併したものである。松が崎は皆法華の村として知られ、背後の山での「妙法」の送り火と「お題目踊り」の行事を今に伝えている。
    この像は、右手に払子を持ち左手に経巻 を持つが、普通の日蓮宗の肖像と異なり裾を前に垂らす禅宗肖像の形式であることが珍しい。この像には、当初の沓と台座が附属している。

    (財団法人京都府文化財保護基金発行の「京都の肖像彫刻」より引用)

教蔵院日生により京都松ケ崎に開設された宗門僧侶教育機関。叡山に学んでいた要行院日統は天正元年(1573)故山である下総飯塚に飯塚談所を開いた。
日統が叡山研学中の同学の後輩に教蔵院日生・蓮成院日尊がある。
日生は播州(兵庫県)・鳥井氏の出で一一歳の永禄六年(1563)京都立本寺日経に師事し、長じて岡山蓮昌寺の檀越某の外護を得て京都松ケ崎に庵を結び、天台三大部を熟読すること数年、本国寺日検の勧めによって叡山に遊学したという。
日生は松ケ崎に学室を開き門下を教育していたが、日統開講のことを聞き天正五年三〇余人の学徒を率いて飯塚に赴き日統の化を助けた。
同七年日統は病を得、後事を日生に託して示寂、日生は後をうけて学を講じていたが、飯塚の学生・僧檀は年少の日生が講会の主導を執ることを不満に思ったのか、また当時の飯塚は不受不施派であったため日生は悦ばず、日生は飯高に移って開講し、これをのちに飯高檀林という。
本国寺日検の弟子といわれる叡山同学の日尊は、京都より下関して飯高での日生を助けた。日生は天台三大部を講じ、階梯・年次を定めて指導して後世の檀林教学の規準となったため「講経の鼻祖」と称された。のち飯高を日尊に委ねて帰洛、天正八年旧講の地に松ケ崎談所を開いたのである。
後世、飯高・松ケ崎の二談所を関東関西の両根本檀林と称した。このようにして関東に関西派教学が移植され、京都学派の三大部講義を主とする学問が盛んになり、やがて関東八檀林が成立し京都にも六檀林が開講されるに至る。
日生は立本寺九世となり文禄四年(1595)七月二四日示寂した。なお京都妙顕寺一七世日空は中村檀林の玄義の講主から鶏冠井、松ケ崎、六条三檀林の化主となり、同寺二二世日妙・二五世日詮、また小湊誕生寺二二世日開・甲州妙了寺一六世日量なども松ケ崎の化主として学問を講じた。ほかに肥後常光寺二世日収・能州滝谷妙成寺一三世日鳳・京都立本寺一七世日審なども松ケ崎に学んだ。

(「日蓮宗事典」より引用)